鳩頭の空中散歩

祓いたまえ、清めたまえ

実家が近隣一帯でいちばん大きな旧社の社務所の隣で、小さい頃から鎮守の杜が遊び場で宮司さんはじめ神職さんに遊んでもらい時にはこっぴどく叱られて育ったので、神社というものがごくごく自然でオカルトチックな印象なんてまるでない。全然「見えない」人だけど、精霊とか見えたら楽しいだろうなと思ったりする。

オカルトマニアの失望

 学生時代、オカルトマニアで物書き志望の同級生が「おまえんち、神社が近かったよな」と。何事かと思ったら、次回作(笑)のために取材したいから神職さんにナシつけてくれとのこと。まあそりゃ別に構わんが…ということで、そいつの取材活動に同行したことがある。

「うちの御神体? …うーん、一応、宗像三女神を祀っていることにはなってるけど」

え、そうなの、20ウン年知らんかったわwww

「何をお祀りしてるんですか?ってよく聞かれるんだよね。『御本尊は何ですか?』って聞かれることもあるけどwww 御本尊だろうと御神体だろうとどうでもいいけどね。神様も仏様も一緒だよ。で、何だっけ? お祀りしているもの? それと? この辺りの古い災害? ああ、ケガレってこと?」

この辺りで同級生に多少イラついたが、とりあえずスルーしておく。

「ハレとかケとか、無いんだよね。お宮は祈祷したり魔除け厄よけするのが本来じゃないからね。お祀りしているものはこの地域って言ったほうが正しいかなあ。ここら辺は古くから半農半漁で、お百姓さんも漁師さんも採れたものをお宮に持ち寄ってみんなで分けて、そういう土地柄でね。お宮は共同体の中心、寄合所だよ、ただの」

 いっぱしの民俗学者気取りで夢見がちな彼は、“きょうかしょにのらないれきし” とかケガレを祀る風習とかオカルトチックな話を期待していたらしいが、すっかり肩透かしを食らったようだ。古地図を持ち出すまでもなく、お宮周辺の自然曲線を描く道路や「新田」の名が残る地名を見たらある程度この地域の歴史は推測がつく。緩いカーブを描く道路がY字路になって突き当たる部分の高台にそのお宮が位置することから、昔はその道路が海岸線でお宮が灯台として漁師たちの目印になっていたのだろう。その道路を境に規則的な碁盤の目状の道路と新田が広がるので、そこからは少なくとも近世以降の埋立地あるいは干拓地だ。それは市の歴史を調べてもすぐ分かる。同じ市在住なんだし。前提取材不足じゃないかい? ただ、山を切り開いて造営された新興住宅地に住む彼と、沖積平野部で昔は島だった山の際に先祖4代居を構えている筆者とでは環境が違うから、彼がもと海岸線の道路や新田の地名からピンとこないのは仕方がない。

 筆者は神社仏閣が好きで旅先で神社や寺院を見かけるとついフラフラと立ち寄る。特に専門に勉強したことがなくても、慣れてくると建築様式や鳥居の形、千社札の系統や貼られ方、量などから、いつ頃建立されたか、どの系統の神社に属するかがだいたい分かる。また、神社や仏閣は軍事拠点の役割を担っていたことから、境内から辺りいっぺんが一望できることが多く、境内の構えや境内から見える集落の配置、地形から、そのあたりの歴史に想像を馳せることも好きだ。
 んでもって、幼稚園がキリスト教系で、教会少年団に所属し安息日の礼拝には気が向いたら出かけるという宗教的無節操には胸張れる。

名もなき花には名前をつけましょう

コブクロ好きなんだけど、ここで歌詞引用するとJASRACが飛んでくるかしら?
1小節なら対象外という都市伝説に挑戦してみるw

「ハレとかケとか、無い」
宮司さんが言った神社でも、厄落としの夏祭りはある。
 古典的な日本の神道は典型的な精霊崇拝すなわちアニミズムである。アニミズムとアニメーションは語源が同じで、「生のないものを動かす」という意味を語源とする。アニミズムとは、自然現象など行動主体のないものに精霊という行動主体と名前を与えて祀る信仰形態だ。何となく疲れが取れないという暑気あたりに、厄という精霊がついたという実体感を与えて、鎮めて去ってもらうのが厄落としだ。キリスト教が制圧した中世の世界でも、自然現象の猛威に常に接する船乗りたちは海の神を祀り続けた。何ら実体を与えないキリスト教の神よりも、厄災をもたらす海の荒ぶる神により信仰を強くした。厄災神に対する信仰はアニミズムの特徴と言える。正体不明だったり何となくモヤモヤしたものに名前を与えることでその正体を顕し、具体的な方策をもって祀ることで鎮めるのである。

「正論なんだけど正面切って反論したら何となく人でなしっぽい」
というモヤモヤした現象になんか名前はないかな、と思ったら、「ポリティカルコレクトネス」という便利な言葉がそれだ!
と最近気付いた今日この頃。

本当にどうでもいいエントリーでした