鳩頭の空中散歩

世代の再生産

「生産性がない」
という発言をした議員に対する言動がもはや吊し上げじみていて逆に気持ち悪い件

生産するのは機械か

「生産」という言葉を人間に対して使うのが許せない
との意見もあるようだが、「人口の再生産」という言葉は厚生労働省統計情報部から発表される生命表に使われるきちんとした用語である。人口再生産率は合計特殊出生率から算出されるもので、日本の社会の維持に関わる重要な数字に「生産率」という言葉がきちんと使われる。

基本的人権以上の権利の要求

憲法を専門で学んだ経験はないが、杉田氏を批判する側も同じようなもんだから敢えて同じ土俵で言ってみる。
憲法が保証する基本的人権とは、社会として受け止められる権利の最大公約数なんじゃないか。また、憲法は主権を明確にし社会のあり方を定め為政者かそれから外れることのないように拘束するものだと習ったような覚えもある。
ということは、だ。憲法の意義は、それが定め目指す社会が健全に持続可能な発展することにあると考えられる。持続可能な発展とは、人口の再生産が滞りなく行われることも当然含むわけで、少なくとも持続可能な人口の再生産は社会システムの維持という意義において納税と投票と同レベルの社会的義務の一つ、いや、むしろ納税や投票以上なのではないか。

権利の主張は青天井

互いの権利を認め合うことは持続可能な社会の維持発展の大原則で、だからこそ憲法基本的人権の尊重を何よりも大切なものとして掲げている。基本的人権の尊重は憲法が定めているから大切なのではない。発想が逆だ。集団が健全に平和に持続可能に発展するために重要だから、集団のルールとして定めているのだ。だから、LGBTを差別視するのがよくないことは当然だが、持続可能な発展に人口再生産の形で寄与する見込みの無いものがそれ以外の形でその責務に協力することは求められて然るべきだと思う。私は高齢独身者だが、「独身税を徴収して子育て支援の財源とする」という法ができれば喜んで従う意志がある。それであれば「生産性が無い」とは絶対に言わせない。が、そういう法も無い現状では生産性が無いと言う誹りは甘んじて受けても仕方がないと考える。
LGBTの方々が差別視に苦しんでいるかどうかは当事者では無いのでよくわからないが、ハラスメントや差別は親告があってこそ初めて認知されるものであるので、差別に苦しんでいる人に対しその是正と支援に協力すべきだとは思う。が、差別の是正と権利の要求は別問題であろう。そこを切り分けられていないから、同和利権や在日利権などの問題も発生する。LGBT利権を新たに発生させてしまうと、彼らが社会から敵視されてしまう。

マジョリティとマイノリティ

反面、多数派の暴力というものも確かに存在する。これをソフィスケートしたものが民主主義だということもできる。ただその前提として、繰り返すが「集団の健全で平和的な持続可能な発展」が前提目標として掲げられるべきであることだけは確かだ。
ネットで面白い意見があった。

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勘違いしている奴が居るけど、マイノリティな人間なんて存在しない。
一人の人間の中に、マイノリティな部分とマジョリティな部分が同時に存在しているだけ。

人間は一人じゃ生きにくいから、お互い役割分担して生きていこうぜ
ってのが「社会」だろ。そのためにお互いのマジョリティな部分で接して
上手く社会を回していくのが社会人の役割。
なんで一個人の細部(マイノリティ)まで社会がケアしないといけないのか?

マイノリティは閉鎖空間(同好の士の集まり)で、それがマジョリティとなる場所でのみ発揮しろ。

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言葉遣いは非常に悪いが、言っていることは非常に同意できるし、目から鱗だ。
個人にマイノリティという属性があるわけでは無い。このことが前提とされなければ個々人のマイノリティな部分を互いに尊重するという真の権利の尊重はなされないと考える。

ただしいひとびとのただしいぼうりょく

議論には2種類ある。意見を持ち寄って結論を導出するものと、結論あっての意見の表出だ。後者は議論というよりディベートで、異なる結論を持つ者を打ち負かすことが最終目的となる。現在の吊し上げじみた議論はそうなってはいないか。世に憚る「ただしいひとびと」こそが議論の封殺をしていないか。世代の再生産を行う見込みの無い者に別の形で社会への参加資格を与えるための議論というものがあっても良いし、その提言の一つとしてLGBTへの言及は私は決して間違っているとは思わない。ポリティカル・コレクトネスの「コレクトネス」とは、ネイティブが持つ意味を単純化すると「正しさ」という概念が近い。もともとそういう曖昧な概念である。正しさの追求は確かに必要だ。が、その「正しさ」の「正」は「正義」の「正」と同義であって、非常に危険な概念だ。ポリティカル・コレクトネスが「正義の暴力」になっていないか、今一度振り返るべきでは無いだろうか。
「社会正義」というと途端に胡散臭いが「ポリティカル・コレクトネス」というとなんかカッコイイ感じな風潮が非常に気持ち悪い。同じ意味だ。

で、結局

今日も暑いね